東スポを超える日本一のタブロイドを目指す!(笑)
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「最近彼が最も憤りを深くいたしましたのは、大久保長安遺族の処刑に
 ござりまする。私曲があれば処罰は当然、されど、何ゆえわれらに
 相談せずに事を決めたるや…この怒りはいったんはわからぬことも
 ござりません。が、実は、上様よりお呼び出しあっても、登城せなんだのは
 彼の方で…むろんこれには同情すべき理由がござりまする。
 先刻酒井どのの申されたよう、そのころには、いよいよ隠居と思うていた
 矢先に、当の嫡男に先だたれ、心身ともに疲れ果てておりました」

「その儀を…その儀を、お許から忠隣によう通じてやらなんだか」

「はい…いいえ、むろん、これは納得させねばならぬことと、
 水野忠元どのにご足労願いましたが、それがしからの伝言と察して、
 病臥中のゆえをもって面会なさらぬ。でござったの水野どの」

「御意」
と、水野忠元は一礼したまま、これは口出しはしなかった。 (P.34)
---

「しかし…」
と、今度は父の正信が考え深げに口をはさんだ。

「そうなると、相模守(大久保忠隣)の処分を、別途に考えなければ
 ならぬことになるかも知れませぬなあ」

それはこの場合、倅の正純以上に鋭い一種の止刀(どどめ)であった。

「そうだ!」
と、安藤直次が愕然としたように声を洩らして、あわてて口をつぐんだ。

近頃の忠隣は、将軍の召しに応じて登城することさえ怠っている。
それをそのままにして置くかどうかは、実は幕府の威厳にかかわる
大事であった。 P.46
---

家康は、もう一度いった。
「ほかに、誰ぞ意見は?」
こんどは誰も発言しようとする者はいない。大久保忠隣に内心では
同情していても、嫡男を失ってからの彼のわがままさには、
誰も弁護できないものがあるからだった。 P.47
---

ここにやってくる途中で松倉重正は二つの大きな出来事を聞かされた。
その一つは今京都にあってしきりに切支丹の教会堂をこわし、
宣教師の追放に当たっている大久保忠隣の改易が、江戸で決定した
ということだった。

徳川家三代に仕えて来た大久保一族の棟梁が、わずかな瑕瑾で
小田原城主の地位を追われていく…
忠隣はすでにその処分を、薄々知りながら小田原城を出発して来た
ものらしい。家康を城内に監禁にして強訴しようとしたのが
その原因である。もはや主従ともども三河の地で苦楽を共にした
ころのような、親しさになれたわがままは許さるべくもないこと
だったのだ… P.89

「徳川家康」(山岡荘八。講談社歴史文庫第23巻。1950~1967年)
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